文字はいつどこで生まれたか
文字はいつ、どこで生まれたのでしょうか。年表を開いて、いちばん古い「文字」の項目をさがしてみてください。前3300年ごろ、西アジアの行にある楔形文字の成立に行き当たります。そのすぐ下、アフリカの行には前3200年ごろのヒエログリフ。縦に並ぶほど近い位置です。では、文字は一度だけ生まれて、そこから世界中へ広がったのでしょうか。年表を左から右へたどりながら、この問いを追いかけてみましょう。
一度だけではなかった
いま見ている前3300年あたりから、年表をぐっと右へ送ってください。前1600年ごろ、東アジアの行に殷が現れます。ここで使われた甲骨文字は、西アジアともエジプトともつながりのないまま成立したと考えられています。さらに右へ。250年ごろ、南北アメリカの行にマヤ古典期。こちらも独立です。つまり文字は、人類史のなかで少なくとも3回から4回、別々の場所で発明されています。楔形文字とヒエログリフのあいだに影響関係があったかどうかは、いまも決着していません。ちなみに前2600年ごろのインダス文明にも記号の体系がありますが、こちらは現在まで解読されていません。何が書いてあるのか、まだ誰も読めていないということです。
最初の文字は何を書いたのか
楔形文字がまず記録したのは、物の出入りでした。誰が何をどれだけ納めたか、という帳簿です。年表で前2900年ごろを見ると、同じ西アジアの行にシュメールの都市国家群があります。多くの人と物を一か所で扱う仕組みができたとき、記憶では足りなくなる。文字はその必要から生まれ、のちに法、神話、手紙へと用途が広がっていきました。文学のために作られたのではない、という順序は押さえておく価値があります。
覚える記号を減らす
ここで少し想像してみてください。覚えるべき記号が数千あったとしたら、書ける人は何人いるでしょうか。初期の文字はそういうものでした。これを変えたのが、前1400年ごろ西アジアの行に現れるウガリットのアルファベットです。記号を30ほどに減らし、音だけを表す方式でした。前1200年ごろのフェニキア人の地中海交易の項目を開くと、この方式が船とともに運ばれていった様子が見えます。記号が減ることと、書ける人が増えることは、まっすぐつながっています。
紙がなければ写しは増えない
文字があっても、書く材料が高ければ複製は増えません。105年、東アジアの行に蔡倫による製紙法の改良。この技術は長く中国の外に出ませんでした。年表を751年に合わせてください。東アジアの行にタラス河畔の戦い、西アジアの行に製紙法の西伝。同じ年に縦に並んでいます。その数十年後、762年のバグダードの建設、830年ごろの知恵の館。書物が大量に集まる場所が、紙の届いた場所に現れます。ヨーロッパに紙が届くのは、さらに数百年あとのことです。
同じ版から何枚も刷る
複製の速さを変えたのは活字です。年表には3件あります。1040年ごろ、東アジアの膠泥活字の考案。1377年、同じ行に金属活字による『直指心体要節』の印刷。そして1450年ごろ、ヨーロッパの行にグーテンベルクの活版印刷術。順番を見てください。活字そのものは東アジアのほうが400年早いのです。ではなぜ印刷の広まりがヨーロッパで語られるのか。記号の数が少ないアルファベット、油性インク、ぶどう搾り機を応用した圧力機、そして安い紙。これらがそろって印刷が商売として回ったためとされています。技術が早いことと、広まることは別だ、という例としてこの3件を並べています。
読む側を増やす
書ける人を増やす工夫も、年表に収録しています。900年ごろ、日本の行にかな文字の普及と国風文化。1446年、東アジアの行に訓民正音の公布。訓民正音は、漢字を学ぶ余裕のない人にも読み書きができるように、という目的が公布の文書に書かれています。1517年、ヨーロッパの行にルターの九十五か条の提題。これが印刷で各地に広まり、聖書の各国語訳が続きました。書ける人を増やす動きと、読める人を増やす動きは、別々の場所で、別の理由から起きています。
年表の「確かさ」が変わる場所
最後に、年表全体に関わることを一つ。楔形文字の成立より左側の項目には、ほぼすべてに「およそ」か「諸説あり」が付いています。遺跡の層位や放射性炭素年代測定による推定だからです。文字の記録が残る地域と時代に入ると、年が特定できる項目が増えます。東アジアの行に「諸説あり」が1件もなく、アフリカの行で「およそ」が「確定」を上回るのは、出来事の性質の差ではありません。同時代の記録がどれだけ残っているか、その差です。文字の発明は、歴史を作ったというより、歴史を書けるようにした出来事だと言えます。
この読み物で取り上げた出来事(19件)
年表に収録している項目です。出来事名を押すと、年表のその位置が開きます。補足・背景・帰結・出典は時代別のページに載せています。
| 年代 | 地域 | 出来事 |
|---|---|---|
| 前3300年 | 西アジア・中東 | 楔形文字の成立(シュメール) ウルクなどの都市で記録用の文字体系が成立。 |
| 前3200年 | アフリカ | ヒエログリフの成立 エジプト。神殿・王権に関わる記録に用いられた。 |
| 前2900年〜前2350年 | 西アジア・中東 | シュメールの都市国家群 ウルク、ウル、ラガシュなどが並立した。 |
| 前2600年〜前1900年 | 南アジア・東南アジア | インダス文明の都市期 モヘンジョダロ、ハラッパーなどの都市が営まれた。 |
| 前1600年〜前1046年 | 東アジア | 殷(商) 現存する中国最古の体系的文字資料を伴う。 |
| 前1400年 | 西アジア・中東 | ウガリットのアルファベット 楔形文字による子音文字体系。 |
| 前1200年〜前800年 | 西アジア・中東 | フェニキア人の地中海交易 アルファベットの伝播を伴った。 |
| 105年 | 東アジア | 蔡倫による製紙法の改良 後漢。植物繊維を用いる製法が記録された。 |
| 250年〜900年 | 南北アメリカ | マヤ古典期 文字・暦・数学を備えた都市国家群が並立した。 |
| 751年 | 東アジア | タラス河畔の戦い 唐軍がアッバース朝軍に敗れ、中央アジアの勢力図が変わった。 |
| 751年 | 西アジア・中東 | 製紙法の西伝 タラス河畔の戦いを機にサマルカンドへ伝わったとされる。 |
| 762年 | 西アジア・中東 | バグダードの建設 円形の計画都市として造営され、交易と学術の中心となった。 |
| 830年 | 西アジア・中東 | 知恵の館 バグダードの図書館・文書庫。この時期、ギリシア語・シリア語・サンスクリット語の文献がアラビア語に翻訳された。 |
| 900年〜1100年 | 日本 | かな文字の普及と国風文化 漢字をくずしたかな文字が使われ、和歌と物語、日記が書かれた。 |
| 1040年 | 東アジア | 膠泥活字の考案 畢昇による。『夢渓筆談』に製法が記録されている。 |
| 1377年 | 東アジア | 金属活字による『直指心体要節』の印刷 現存する金属活字本として最古とされる。グーテンベルクより約70年早い。 |
| 1446年 | 東アジア | 訓民正音の公布 朝鮮で独自の表音文字(のちのハングル)が公布された。 |
| 1450年 | ヨーロッパ | グーテンベルクの活版印刷術 金属活字と印刷機による量産技術。 |
| 1517年 | ヨーロッパ | ルターの九十五か条の提題 宗教改革の起点とされる。 |